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灼ねつに こはれた靴を ふところに さすらふ吾は 似非よげんしやと
<読み>
しゃくねつに こわれたくつを ふところに さすらうわれは えせよげんしゃと
<意味>
灼熱の下、壊れた靴を懐中に入れ、放浪している私は似非預言者と [遭う]。
<解説>
結句「似非よげんしや」に接続すべき用言が省略されているとみるのか、それとも第4句「さすらふ」に接続していると解釈するのか、それによって解釈が変わる。しかも前者によった場合、それに相応しい用言を自身で補わなければならない。<意味>にあるのはその最も無難であろうモノであって、それが正解であるとは断定出来ない。例えば、他に考えられるのは、"呼ばれる" がある。
歌全体を<意味>での解釈を前提に読んでみると、12使徒 (12 Apostles) のひとり、イスカリオテのユダ (Iudas Iscariotes) の心中である様にも採れるが果たしてどうだろう。