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いつもの様にジャケットを観る。
警察官が見守る中、手前に並んでいるであろう群集に向って、トラメガで話しかけている黒人男性がいる。
彼は何を語っているのであろうか? 否、その内容よりも気になるのは、その黒人男性のうちひしがれた様な表情である。
彼は群集を煽り熱くアジテーションしている様にも見受けられないし、その逆に、体制側(≒白人側)に与したアンクル・トム(Uncle Tom)にも観えない。群集にも体制にも受け入れられない孤独をこの写真に感じるのは、僕だけだろうか?
1979年発表のキース・リチャーズ(Keith Richards)の初のソロ作品(シングルとして発表)「ハーダー・ゼイ・カム(The Harder They Come)」の、暗く絶望的な解釈はすごく良く分かったんだけれども、そのオリジネイターのジミー・クリフ(Jimmy Cliff)の、ハードでヘヴィな状況をしなやかに軽やかに歌ってしまうその解釈には違和感を覚えたものだ。
己が置かれた状況がヘヴィでハードであればあるほど、それを明るく楽しく唄い飛ばしてしまう解釈。それはゴスペル(Gospel)あたりに源流がある黒人音楽ならではの強度と硬度、それは勿論非常に魅力的だけれども、やはり違和感を覚えてしまったのも否定出来ない。
だから、きっと僕はラスタファリズム(Rastafarianism)を受け入れられないんだろうな。
でも、とはいうものの、その真逆の己の悲劇を嘆き怨み悲しむ(だけの)唄にも抵抗感を覚える。
僕が好きな唄、もしくは支持する唄は、己の現状をたんたんと、しかもリアルに描写するものなのだろう。