2005年08月15日
『GODZILLA ゴジラ』を地上波で観る
エメリッヒの『ゴジラ』。っていうか、通称ハリウッド版『ゴジラ』。
1998年制作で舞台はニューヨーク。今は亡きツイン・タワーがN.Y.全景のシーンになる度にばんばん映り込んでいます。
国内外のマニアやファンの間では、非常に評判の悪い作品だけれども、その辺を改めて考えてみながら観てみました。
単純に巨大化したイグアナ然とした容姿とか、物語後半が等身大のベビーと人間との闘い(まるで、『エイリアン2』や『ジュラシック・パーク』みたい)になってしまった等の、作劇上の設定がオリジナル・シリーズに準拠していないって事が、その批判の矢面にたっている様ですが。
今日という日が、08.06.と08.09.を経ての60回目の08.15.だから書くんですけれども、この映画に一番欠けているものは、核の脅威のアナロジーではないでしょうか?
勿論、この映画には、フランスによって大西洋で行われた核実験が原因でイグアナが突如巨大化したという設定はあります。でもそれは、50年代〜70年代に、鬼の様に創られた巨大生物パニック映画(蟻とかバッタとか蜘蛛とか鼠とかがでっかくなるやつ)からの遠い遺伝子であって、残念ながらゴジラのDNAは組み込まれてはいないようです。
ものづくし(click in the world!) 16.:
ゴジラ
過去制作された数十作の東宝のシリーズは、作品によっては必ずしもそのDNAを受け継いでいないものも中にはある様なので、話を単純化させる為に、1954年発表の第一作に限定します。
第一作には、3種類の兵器が登場します。先ずは自衛隊が装備している通常兵器。そして第二にゴジラの眠りを醒す核兵器。覚醒し、放射能を帯びたゴジラはそのまま、イコール核兵器として東京を蹂躙します。そして最後に登場するのがゴジラを滅ぼすオキシジェンデストロイヤー、つまりは核を超える新たなる大量殺戮兵器。このみっつです。
そしてこの物語では、通常兵器は核兵器に対抗する術を持たず、大量破壊兵器たる核(=ゴジラ)は新たなる大量殺戮兵器の登場を促す。つまりは、兵器すなわち殺人の為のシステムが、インフレーションを起こしているわけです。それを防ぐには、兵器そのものの存在を抹消しなければならないという考えに及んだ結果、大量殺戮兵器の発明者たる芹沢博士(=平田昭彦)は、ゴジラとともに殉じなければならなかったのでしょう。
つまりは、この1954年の映画は、冷戦時代の構造が生み出した集団的安全保障政策の、核の抑止力という概念そのものを否定しているのです。
『追悼:伊福部昭』につづく。
posted =oyo= : 13:35 | comment (0) | trackBack (0) | ものづくし (click in the world!) /映画もみる
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