2006年02月10日
追悼:伊福部昭
毎週土曜日の21時台に伊福部マーチが全国の家庭のTV画面を彩っている。
『日立 世界ふしぎ発見』(TBS系列)枠で放送されている黒澤明組の撮影シーンを流用したCM『 「つくろう。」キャンペーン 宣言篇』、その全編に流れているのが、伊福部昭による「宇宙大戦争マーチ」である。
黒澤と伊福部、二人のAKIRAを結びつけるものがなんなのかは、ここでは書けないけれども、ある意味での東宝の表と裏である事は間違いない。二人の間に、本多猪四郎を置いてみると二人のAKIRAの鏡像関係が観えてくる筈。
初めて体験した故人の作品は『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(1965年)。以来、映画館のスクリーンやブラウン管(それは夏休みの特番だった場合もあるし、雨天野球放送中止の場合もあった)や井上誠によるリメイク作品の場合もあるし、夢の中で魘されて観る時もあった。
僕の幼児〜少年時代の遊び場は、山や川や海ではもちろんなくて、藤子不二夫作品の少年達の様な土管の並ぶ空地ですらなかった。パチンコ屋やゲームセンター(それは現在のものと全然違うもっといかがわしい処)や本屋やおもちゃ屋や駄菓子屋、そして映画館。
赤い絨毯は敷かれているけれどもそれは薄汚れているし、モギリの小母ちゃんは膏薬の匂いがするし、待ち合わせのソファはバネが飛び出しかかっているし、なんだか辺り一面小便臭い。
そんなロビーの隅っこにある売店で、油ぎったドーナツか湿っけたポップコーンに、バヤリースのオレンヂジュースをあてがわれて観た、伊福部昭作品の数々。
暗い闇の底の様なシートに身を沈めて観た、破壊と混乱と炎の乱舞と吹き荒れる嵐、未だ観ぬ絶海の孤島に未知の生命の息吹き。そしていつも訪れるのは祀ろわぬ怪獣達の悲劇的な最期。
でも、当時は映画館は入換制ではなかったから、僕達は知っていたんだ、あの小便臭いロビーでほんの少し時間を潰せば、また彼らに会えるってね。
だから、「ゴジラのテーマ」が鳴り響けば、東京湾に上陸するゴジラとそれを迎え撃つ自衛隊の作戦展開シーンのカット割りは頭の中に再現出来るし、キングギドラとあい対峙する、富士山麓に結集するゴジラやアンギラスやモスラ達の映像を観れば、彼らのライトモチーフの音楽もアテる事が出来るのさ。
少なくとも、彼らと共演した、人類側の主演陣の宝田明や佐原健二や久保明以上に、各々の怪獣達に密接に寄り添い絡んだのは、故人の楽曲である筈だ。
ゴジラ、ラドン、モスラ、キングギドラ、キングコング、ドゴラ、バラゴン、ゴロザウルス、サンダ、ガイラ、メカニコング、チタノザウルス、メカゴジラ...彼ら一匹一匹には各々のキャラクターに相応しいメインテーマが充てられている。それはクラシックにおける標題音楽の手法なのだけれども。彼らが行う破壊や殺戮や戦闘等、子供心に奮い立たされるシーンに鳴り響くと同時に、哀れな末路を遂げる悲劇的なシーンにも同じテーマが流れる。かつて故人のインタヴュ−に次の様な趣旨の発言があった。
「どんなに強く大きく逞しい彼らも、いつかは人類に駆逐される。だから、勇壮果敢なシーンに流れる音楽にも、後の悲劇を予見される悲しい旋律を潜ませてある」
そもそも、1985年の『ゴジラ』復活とそれに続く平成ゴジラ・シリーズの、その端緒を開いたのは、井上誠らによる伊福部作品のリメイク『ゴジラ伝説』とそれに連動する形での伊福部作品のオーケストラ演奏による上演(その音盤化が『ゴジラに捧ぐ 伊福部昭 SF交響ファンタジー 』)なのである。
つまり、ゴジラ復活の最も大きな力になったのが、その作品を足係りに飛躍した俳優達の力でも、当時の『スターウォーズ』を嚆矢とするSFブームによる円谷英二の再評価でもなくて、実際的な力となったのは音楽である、ということなのだ(勿論、ルーカスもスピルバーグも円谷の薫陶を受けており、それによる再評価という局面を否定するものではないけれども)。
パンク〜ニューウェイブで、サブ・カルチャーを漁りまくっていた当時、これらの作品が発表された事で、己の出自を再確認すると同時に、「ここに来てこんな事している」って事が間違っていないんだなって再認識しました(いや、当時、周囲の同世代から浮きまくっていたんすよ)。
だから、平成ゴジラ・シリーズは、かつてのモスラやキングギドラやメカゴジラといったリバイバルするライヴァルの出現という理由もあったけれども、大スクリーンで鳴り響く伊福部サウンドを聴きに行ったという感が強い。日劇も疾うになくなってしまってマリオンになってしまったけれども、あの小便臭いロビーなんかどこにもないけれども、僕達は、伊福部マーチと共にあるゴジラを観に行った。初代ゴジラが蹂躙した銀座にある映画館に。で、ここでも再認識させられる。幼児時代からインプリンティングされたその音楽が、今に至る僕の音楽的嗜好を方向づけていたんだなと。
殆ど、個人的な追憶な文章になってしまったけれども、伊福部作品の分析やら論証は後日の宿題にさせていただいて、最期に故人の作品の中から5作品、好きな作品をあげさせて頂きます。
『キングコング対ゴジラ』(1962年)
『海底軍艦』(1963年)
『大魔神』(1966年)
『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966年)
『怪獣総進撃』(1968年)
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コメント
>和歌之介さん
東宝の怪獣達は、生物というよりも、荒ぶる神々だったり、大自然の脅威だったりしますからね。
人類の善悪の彼方にあるべきものが、人類と遭遇してしまったが為に起こる不幸を描いた作品が殆どです。悲劇は、人類が不可触の領域を侵犯したが為に起こります。
だから、怪獣は絶海の孤島から、荒れ狂う大海原から、大鉱脈眠る地の底から、無限の彼方の大銀河の彼方から現れるのです。それは、我々への警鐘とも言えるでしょう。
そういう意味においても、アイヌの音楽や日本固有の土俗的な音階に精通していた故人が、これらの作品に関わったのは、必然の産物とも言えるでしょう。
投稿者: たいとしはる feat. =OyO= | 2006年02月11日 11:06
>勇壮果敢なシーンに流れる音楽にも、後の悲劇を予見される悲しい旋律を潜ませてある
ぐっときました。
正義を、より「正義」に見せるために悪役の存在はとても大きな意味を為す。正義をより「正義」に見せるために、悪役に感情移入させてはいけない。そういうふうに作り手は作っていることでしょう。
でも、彼らの最期を「悪が滅びてよかったね〜」ではなく、命が絶えることには悲哀や悲惨さがあるということを伊福部音楽は教えてくれていたのかも知れないですね。
投稿者: 和歌之介 | 2006年02月11日 01:36