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2007年04月21日

眼玉の冒険:田の中勇参江

確かに、田中麗奈はなんのメイクもしなくても猫娘にそっくりだねぇなんて、戯けた事をほざく前に、ちゃあんと田の中勇目玉親爺に、キャスティングされている事にホッとする。
勿論、これは実写版映画『ゲゲゲの鬼太郎』の話なんだけれどもね。

目玉親爺のあの姿を観る度に「器官なき身体Corps sans Organes)」[from 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症L'Anti-OEdipe)』by ジル・ドゥルーズGilles Deleuze)&フェリックス・ガタリPierre-Felix Guattari]なんて懐かしい言葉を思い出してしまうんだけれども、よくよく考えてみたら、彼は「器官なき身体Corps sans Organes)」[from 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症L'Anti-OEdipe)』by ジル・ドゥルーズGilles Deleuze)&フェリックス・ガタリPierre-Felix Guattari]ではなくて『身体なき器官Organs Without Bodies: On Deleuze and Consequences)』[by スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Zizek)]だよね。
しかも、その彼のたったひとつの特徴である大眼玉が彼を規程するのではなくて、彼を規程するのは、本来ならば(身体構造的に)発話不可能なその声、つまり田の中勇の発する「おい、鬼太郎」(宴会の一発芸的に、やるやつね)だったりするところが、面白い。
しかも、磯野波平(from 『サザエさん』)と同じ様に、いまや失われてしまったニッポンの父親像を象徴しているというのは、穿った見方か? しかも、身体的肉体的には己の息子に一歩譲るものの、知識と経験値によって彼らを絶えずリードしていくその姿は、ある意味で理想像に近い(んぢゃないかな)。


そしてその「器官なき身体Corps sans Organes)」[from 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症L'Anti-OEdipe)』by ジル・ドゥルーズGilles Deleuze)&フェリックス・ガタリPierre-Felix Guattari]ならぬ「身体なき器官Organs Without Bodies: On Deleuze and Consequences)」[by スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Zizek)]性を抽出して、創作家の記名性を否定して匿名性の名の基に、独自の音楽をクリエイトしているのがザ・レジデンツThe Residents)である事は、音楽ファンにとっては有名な話。と、言うと、大風呂敷すぎちゃうか。"歪んだ"ロック・ファンにとっては、知らぬものもいない有名な話だ(と、屈折した物言いにしておく、保身の為に)。
尤も、このザ・レジデンツThe Residents)は目玉親爺とは違って、己自身の声を持たないが為に[メンバー自らは発言しない。プロモーションやインタヴューは専任のスポークス・マンであるクリプティック・コーポレーション(The Cryptic Corporation)が充たる]、彼らのアイ・ボールThe Eye Ball)ファッションのイメージの源泉が、水木しげるが描いたキャラクターか否かは担保出来ないんだけれどもね。













もう少し信憑性のある話をするならば、目玉親爺ザ・レジデンツThe Residents)は、実は同じ源から別れた支流ではないかと。
つまり、ルドン(Odilon Redon)。
彼の作品、例えば『眼は奇妙な気球のように無限に向かうL'Oeil-Ballon)』『ヴィジョンVision)』『キュクロプスLe cyclope)』等ののイメージ。
大きく見開かれた瞳。ではなくて、大きな眼球そのものは、その水晶体に映る映像を捕らえるが、決してそれを発話する術はない。
しかし、その眼球は言葉を持たないが為に、あまりにおおくのものを、彼を観る我々に訴えてくる。


バタイユGeorges Albert Maurice Victor Bataille)の『眼球譚(Histoire de l'oeil)』と、そこから発生するであろう諸問題については、ここでは語りません。


ps : ところで、水木しげる作品は、常に此岸と彼岸の境界に佇むものが、物語のモチベーション(動機)を常に形作っている気がするのだけれども、いかがでしょう? 人間と妖怪のアイノコであるねずみ男(in 『ゲゲゲの鬼太郎』)しかり、悪魔くんによって人間界に呼び出された悪魔(in『悪魔くん千年王国』)しかり。異なる次元の秩序が崩れ、その境界が曖昧になった時に、どこからともなく現れる「境界に佇むもの」の物語。だからこそ、水木しげる作品の真の主人公は、鬼太郎でも悪魔くんでもない、彼らなのだ。

ps for ps : あえて実写化しろとは言わないけれども、説話的な物語のタガが弛んで、悪夢的な言説がえんえんと語られる『鬼太郎夜話』を、映像化してみないか? 物語るべき"物語"そのものが、境界に佇んでいるから。独り悲劇のヒロインを演じている猫娘は別にしても、ねずみ男は勿論、目玉親爺も、鬼太郎も、誰もがみな妖しい魅力を放っているんだよ。

ものづくし(click in the world!)53.:

眼は口程にモノを言う

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