2007年05月19日
試論:映画『羅生門』をリメイク出来るのか?(第三部)
前回で、芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa)の小説『薮の中』が小説『羅生門』の続編であり、『羅生門』の最期で行方知れずになった主人公の下人が後の、『薮の中』の証人のひとり、盗賊の多襄丸となった様に解読(この場合は、誤読か?)できると、書いた。
ならば、それを受けて、『羅生門』の続編『薮の中』という流れで、映画『羅生門(Rashomon)』を再構築出来ないだろうか?
これが、本編の趣旨(の筈)ですが、あらぬ方向に暴走してしまっています(苦笑)。
これまでの文章を読んでいないで、突然にこのページにぶつかってしまった方は、下に記したこれまでの論考を御確認願います。
試論:映画『羅生門』をリメイク出来るのか? 第一部
試論:映画『羅生門』をリメイク出来るのか? 第二部
小説『羅生門』の続編を小説『薮の中』として、盗賊の多襄丸を主人公に据えた説話的な物語は不可能ではないだろう。『薮の中』では多襄丸は既に官吏に捕縛されていて、これまでの罪状から本人自らの言の通り「どうせ一度は樗(おうち)の梢に、懸ける首」だろうから、『薮の中』が盗賊の多襄丸の最期の説話となる訳だ。また、その一方で、小説『羅生門』は、下人が「引剥(ひはぎ)をし」た説話、つまりひとりの盗賊が誕生した説話である。そうであるならば、小説『羅生門』と小説『薮の中』をつないで、その接続部分に様々な盗賊のエピソードを列ねれば、ひとりの盗賊の誕生から死という、ピカレスク・ロマン(picaresque novel)は完成するだろう。物語の語り口と、構成に細心の注意を払えば、ある程度のクオリティのものが出来上がる可能性はない訳ではない。
だが、しかし、これでは2篇の芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa)の小説を原作とする、新しい映画は出来ても、映画『羅生門(Rashomon)』のリメイクにはならない。やはり、映画『羅生門(Rashomon)』の構造を踏まえた上で、ひとりの盗賊の誕生から死という物語を物語る映画を考える必要はあるだろう。
ここで僕なりのリメイク案のひとつでも提案するべきだろうが、その前に寄り道をしてみようと思う。しかも、寄り道とは書いてみたけれども、再びここへ戻って来れるかどうか、いささか心もとない。それでも、この駄文を書き連ねながら、うすぼんやりと観えて来た事を、もう少し、はっきりとこの眼で観たくなったのだ。徘徊老人の様な放浪にしばし、おつきあい願いたい。
それは、志村喬(Takashi Shimura)演じる杣売の存在である。「薮の中」の三人の存在感があまりに強烈なだけに、ともすると忘れてしまいがちになるが、杣売の彼もまた、「薮の中」の登場人物のひとりなのだ。「羅生門」で語られる「薮の中」の物語を物語るナラティブな役割の方に、つい重きを置いてみてしまうが、彼は実際に「薮の中」で起きた事件を見聞する証言者であると同時に、「薮の中」を事件たらしめる直接の当事者でもあるのだ。
三船敏郎(Toshiro Mifune)の屈強とした肉体のダイナミズム、匂い立つ様な官能の京マチ子(Machiko Kyou)、そしてそのふたりの激しい情動を静かなるものとしてぢっと受け止める森雅之(Masayuki Mori)、この三者の「動」にして「檄」の物語をぢっと目撃していた人物、それが志村喬(Takashi Shimura)演ずる杣売である。そして、三者の「薮の中」の物語が終焉した時点で彼のとった行動が、「薮の中」で起きた出来事を「事件」(説話ではなく、推理小説で解決されるべき物語)へと昇華させる。
だから、僕は思うのだ。この『羅生門(Rashomon)』という映画は実は、三船敏郎(Toshiro Mifune)や京マチ子(Machiko Kyou)を主軸に据えて観るべきものではなくて、志村喬(Takashi Shimura)演じる杣売を主人公とした映画として、再び観直す必要があるのではないだろうか、と。
そうすれば、
"『薮の中』の物語で語られた物語と、本来ならば『羅生門』で語るべき物語が、唐突に、あるもので止揚されてしまうのだ。「静」と「動」、「謐」と「檄」、「感情=本能」と「理知=理性」、これらの対立軸をなしくずしに上位概念?の呈示で、終らせているのである。"
と本稿第一部で指摘した、この映画が異なる相貌をもって、現れるに違いない。
つまりはこういう事だ。
雨宿りしていた羅生門で己(達)の見聞したものを偶然立ち会った下人に対して説明して行くに従って、杣売自身が見聞した事物とそれに対してとった行動、その総てがあやふやで不確かな存在へと化してゆく。尤も、己のとった行動(「薮の中」の事件現場から短刀を盗むという犯罪行為)を隠し通す為には、嘘の証言をしなければならなかったから、己自身の証言があやふやで不確かなものにならざるを得ない、だからこそ、それはなおさらの事であり、不可避の道程である。杣売の内心を指弾し、そのあやふやなるものにそれなりの筋道を明確に指摘した下人は、彼の主張を裏付けるかの様に、やるべき事をやって「羅生門」という舞台から退場する(そう言えば、この下人だけはこの映画の中で、唯一言動が一致している)。
その下人の退場直前に、杣売に託されたのが、******(あえて伏す)という装置であり、それを廻って杣売が大きな決断をする事によって、この『羅生門(Rashomon)』という映画は幕を降ろす。
と、ここまで書いて来たら、後年の黒澤明(Akira Kurosawa)の映画『生きる(Ikiru)』で、同じく志村喬(Takashi Shimura)が演じた主人公の下級公務員の物語と、同じ役回りを彼が演じていて、作品自体も同じ物語の構造を成している事に気づいてしまった。
ものづくし(click in the world!)55.:羅生門<参考資料>
映画『羅生門』
DVD / 作品解説/criyique / IMDb / Trailer / Sound Tracks
小説『羅生門』 文庫 / on web / 解説
小説『薮の中』 文庫 / on web / 解説
今昔物語『羅城門登上層見死人盗人語(羅城門に登り死人を見る盗人の話)』
文庫 / 現代語訳 on web / 原文 on web
今昔物語『具妻行丹波国男於大江山被縛(妻と伴い丹波の国へ行く男が大江山で縛られる話)』
文庫 / 現代語訳 on web / 原文 on web
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