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2013年09月19日

青空ヲ詠メル

20130919.jpg
きみも夢も おそらの風船 左様なら 付点音符 撥ねるがごとく

るい詠める

<読み>
きみもゆめも おそらのふうせん さようなら ふてんおんぷ はねるがごとく

<意味>
あなたもゆめも、お空に浮かんだ風船の様だ。さようなら。付点音符がはねている [譜面の] 様 [に風船が飛んでいく様相] だ。

<解説>
詠われている情景は非常に単純で、その上にしかも、結句が文語を採っているけれども、決して解釈を妨げるモノではない。だけれども、その解釈には、一筋縄ではいかない様な気もする。
1. あなたも夢も、空に浮かぶ風船の様だ。
2. さようなら [と、別れを告げる]。
3. いくつもの風船が飛んでいて、その様はとてもリズミカルなものだ。
描かれている景は、上の3項目だけれども、そのどれにフォーカスを当てるか、もしくは、どおゆう順番で、視点を移動させるか、それ次第では、如何様にも解釈可能なのである。
つまり、この歌を哀しくも愉しくも、いずれの歌にも解釈可能なモノの様な気がするのである。
例えば、公園や遊園地、さもなければ催事場等で風船をひとつ、与えられたとする。その風船を、ふとした弾みで手許から空へと飛んでいってしまった場合と、自宅に持ち帰れたものの、その翌日に萎んでちいさくなったそれをみてしまった場合と、一体、どちらがかなしいのだろうか。
そんな事をふと、考えてしまっているのである。
附記:第3句「左様なら」は、別れの言葉として解してみたが、その原義である「〜そうであるのならば」でも、解釈可能である(態々、漢字表記にしてあるから、むしろその様に解釈すべきなのだろうか)。と、なると当然、歌そのものの解釈も、様変わりしなければならない。

(この項:たい)

posted =oyo= : 17:02 | comment (0) | trackBack (0) | るいの歌集(仮)

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